1995年1月17日
午前6時ごろだったと思います。軽い揺れの後、またうとうとしていたころです。
電話のベルが留守番電話に切り替わり
、「みんな生きてます」 という妹の張り上げた声。
一瞬何のことかわからず、ひょとしてさっきの地震?まさかね。あのくらいではね・・・
(私の住んでいる愛媛では震度3でした。)
と言いながら、テレビをつけました。
あまりのひどい状況に目を疑いました。
阪神淡路大震災です。
妹が住んでいたのは、一番被害が大きかった東灘区
震度7
一応元気でいることが分かっていたのでひと安心でした。
そのころ、まだ子供のいなかった妹夫婦は、火の手が迫ってくる東灘区を後に、夫の実家のある尼崎まで5時間かけて歩きました。
道中の悲惨な光景は今も鮮明に頭に焼き付いているそうです。
数年後、子供が生まれた妹たちは、夫の転勤で福岡に引っ越しました。
阪神淡路大震災の後、家財道具を買い替え、子供も二人目が生まれ、新しい生活をしていたころです。
2005年3月20日 西方沖地震です。
福岡市内で最も強い揺れのあった西区に住んでいました。
震度6弱です。マンションに住んでいたため、揺れが大きく家財道具がまた破壊。
家族が元気だったので良しとしないといけないのか。
2度も大きな地震に遭遇。
福岡から次の転勤先は仙台です。
仙台が転勤先と決まった時、「三陸も危ないのよねー」と言っていた妹の言葉を覚えています。
2度の地震に合っている妹夫婦は住居選びから慎重です。
家の中の地震対策も徹底しています。
仙台に転勤し、1年が過ぎたころ栗原市の駒の湯温泉に行っていました。
帰宅後、
岩手・宮城内陸地震震度6強
その訪れた温泉宿に土砂崩れ。9名が巻き込まれました。
妹たちは数日違いで助かりました。
無事 5年の仙台生活を終え3月末に夫は東京に転勤。夫のみ一足先に東京に転居。
(仙台のマンションに入っていた地震保険を東京のマンションに移行)
妹は子供の終業式を終え東京に引っ越す予定でした。
仙台生活も残り 10日となった
2011年3月11日14時46分 東日本大震災震度7その日の朝、妹と電話で話し、少し話が長くなると、妹が、「今から出かけるから、じゃあね」と電話を切りました。それが最後です。
車で買い物に出かけると言っていました。
震災の後、全く連絡が取れません。住んでいた所は海からは少し距離があります。
しかし、車で出かけているので、海の方角に走っていれば・・・と
悪い想像ばかり頭をよぎります。
連絡が取れないまま夜になりました。伝言ダイヤルで妹の声を聴くことができました。
「子供たちも無事です!」
たまたま田舎から出てきていた母も安堵の様子でした。
後で聞いた話では、津波で被害を受けた場所に買い物に行き
その近くのおいしいラーメン屋さんに寄ってラーメンを食べる予定だったそうです。
が、なんだか家に早く帰らないといけないような気がして、お腹が空いているのを我慢し
2時に帰宅。
もしラーメンを食べていたら、と考えると、鳥肌がたちます。
東日本大震災の写真
少し片づけた後でしようか
引っ越し準備真っ最中 電子ピアノがぁ
↑ひっくり返った電子ピアノ
妹は昨年から兵庫県西宮に住んでいます。
今年
兵庫県・淡路島を震度6弱の地震が襲いました。またさらに今、
近畿に巨大地震のうわさが・・・
9月6日何もなければよいですが
震度6以上の大地震を行く先々で経験した妹家族
幾度と怖い思いをしてきていますが、この経験が将来きっと何かに役に立つと信じています。
地震の教訓
窓を開けて避難口の確保
すぐに水を貯める(マンションの場合)
スリッパと懐中電灯を枕元
圧力鍋と卓上ガスコンロを取り出せるところに
飲料水、食品の備蓄
簡易トイレ
高価な食器は買わない
また、竜巻や、大雨による水害が起きています。
震災により被災されたみなさま、またそのご家族のみなさまに心からお見舞い申しあげます。
by mikarose
| 2013-09-04 14:59
| その他
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